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濃茶の練り [お茶にまつわる話]

”美味しい濃茶”を飲む……と言うのは…なかなか難しい。

ま…それは…”美味しい濃茶”を練れる様になるまでの「回数」の問題…と言う事が一番の部分だとは思うが(w

やはり…ふんだんに”飽きるまで練る”と言う事は難しいのだろうから……

その”練り方””お湯の使い方”と言う事が一つのポイントになるのだろう。

この手の”ポイント”に一つの光明と言うか…何と言うかに「堀内宗心」氏の書物に…参考になるべき事がある…と。

”茶乃湯考”と言う、その書物に書かれている部分だが……

経験論的な事もさることながら…科学的な視点を背景にしての考察は、頷くべき所も多い。

”一期一会的”な観点からすれば…一回一回の濃茶を大事に…と言う部分に繋がっていくが…

その精神からすれば…”美味しい濃茶を練る”と言う事は…「お茶」そのものにも感謝する事にもなるだろうから……


“濃茶を練る”と言う所作に関して、精通していきたいものではある。

茶の湯と茶道 [お茶にまつわる話]

「茶の湯」と「茶道」とで何が違うのか……?

正直な所、それは表面上の字面の問題に過ぎない…と言う気もするが…

そうは言っても、文字が違うと言う事は意味も違うであろうと言う事は想像に難くはない…

「茶の湯」「茶道」の源流として…元々は、どちらも同じ意味を象徴していたと言うのが実態だと思われるが…

明治以降、岡倉天心が「茶の本」における英訳で「Japanese Tea Ceremony」と訳した所から…「茶道」と言う呼称に繋がっていく?と言う部分は良く言われている。

それは、明治期以降の色々な価値体系の変化の中で、「お茶」の世界も色々な試行錯誤が問われる時代ではあったが…その中で、「礼法的」な意味合い、「花嫁修業的」な意味合いをも加味していく形での”新しい業態”をも盛り込んで行く過程で…「武道」などと並ぶ「道」と言う要素の部分を大きくしていった流れと言う事があるのだと言う事なのだろう。

「茶の湯」「茶道」の有為転変の世の中をたくましく生き抜いて来た、その歴史・生命力は、非常に注目に値する部分であるが…

大元の価値体系を毀損しない様に、変化して行くダイナミックさこそが、実は「茶の湯」の大きな魅力の一つ…とも思えるのでありますね。



茶の湯御政道 [お茶にまつわる話]

「茶の湯」と言う事に関して言えば、どうしても「美」との関連で語られる事が多い部分は、致し方が無い訳ですが……

そもそもの、「茶の湯」の興隆の基礎を作った(加速させた)のが”織田信長”と言う事で、争いは無い事と思われる所、彼が、どのように「茶の湯」と対峙をして行こうと言うつもりであったのか?は、彼の意図する政治的なゴールが不明な部分(所謂、三職推任問題)もあるので、漠然としたモノがついて回るのは致し方が無い所ではあります。

しかし…?

彼(織田信長)の一つの功績として認めなくてはならないのは、「茶会」「茶器」等に関して、”一定の価値”を付与したと言う部分でしょう。

これをして…「何もない所に価値を創設した」等と極端な事を言うつもりはない訳ですが……

滝川一益のように、「珠光小茄子」を望んでも叶えられない……と言う、一つの効果を現出した事は、まさに、その政治的な手法としての「茶の湯御政道」を確立したと言う事になるのだろう。

勿論、「信長」が本能寺で倒れる事が無ければ、それは一つのプロトコール(儀式)としての色彩を濃くしつつ、その後に伝承をされていったのだと思われるが、それが果たされなかったのは、周知の通り。

だが、ここで考えて行くべきは…?

後押しをした信長の横死と言う重大事項が発生をしても、その後に生き続けた「茶の湯」の野太い生命力の存在ではないだろうか。

勿論…? 豊臣秀吉と言う後継者の存在も無視をする事は出来ないが……

「芸術」「美」「生き方」「死生観」……etc あらゆる方面にまで波及する”総合芸術”としての顔を併せて持つに至った…その懐の深さ……まさに「ブラックボックス」的な存在と言うモノについて、極めて「日本的な」存在が投影された姿を見る事が出来るのではないだろうか?

喫茶養生記 [お茶にまつわる話]

「茶は養生の仙薬、延年の妙術なり。山谷に之を生ずれば、その地霊なり。人倫之を採らば、その人長命なり」

と言う件で始まるが……

実は、「喫茶養生記」は”上下の2巻構成”

そして、”上巻”の方では、「五臓」の調和と「五味」(酸、甜、苦、辣、咸)について記されており…
”下巻”の方では、諸病の治療法について記されているとか……(・▽・)

まあ、平ったく言うと…”上巻”の方が「お茶」で健康促進(未病的な)、”下巻”では「桑の木」を使った治療法…
と言う感じで構成されていて…

有名な「源実朝」の二日酔に献じたと言う部分は、”上巻”と言う事になる訳ですな♪
(※「吾妻鑑」による)

もとい…栄西自体が、「茶の実」を日本に持って来て以来、茶の隆盛を見たと言う部分も相俟って
「喫茶養生記」の価値が高められたと言う部分もあると思いますが…(w

さて……余談ついでですが……?

先日、本屋をウロウロとしていたところ…「陰陽五行とお茶」と言う本が並んでいたが……
「お裏さん」(裏千家)の本と言う事らしいが……何故に?と思っていた所……

なるほど…近年の研究で「喫茶養生記」と「陰陽五行説」とを関連付ける話もあるようなので…?

その辺の事を意識した「本」と言う事なんだなぁ……(・▽・)と…少し疑問が解決をしたのでした~


タグ:喫茶養生記

大師会 [お茶にまつわる話]

毎年4月21日に恒例の「大師茶会」……所謂「大師会」であるが…(・▽・)

”かの益田鈍翁”が、狩野探幽秘蔵の弘法大師による「崔子座右銘一巻」を手に入れた事から

それにあやかって、品川の私邸である御殿山にある碧雲台に大師堂を拵え”茶会”を催す運びとなった。

この”茶会”は、その後、茶会と言えば「大寄せ」と言われる茶会形式の嚆矢となった訳だが……

”鈍翁”の影響力もあってか…?

財界他、各界の名士の集う会員制の茶会となっていった。

この「大師会」は、明治28年を最初に、「三渓園」「畠山記念館」「護国寺」「根津美術館」と場所を移して

行われていくが、現在は「根津美術館」での開催と言う形になっている。

鈍翁は、大正11年には、この弘法大師の巻物と、弘法大師の軸、五個の鈴の三点を基本として

「財団法人化」を行い……(・▽・)?……現在は、”東京美術倶楽部内に本部がある”

(※ ちなみに、「東京」「京都」「大阪」「名古屋」「金沢」の五都市の美術商が持ち回りで開く事になっている為……かと)

と言う……数寄者による、「道具茶会」である、「大師会」である。

(※ 後、お約束ですが……? 西の方には「光悦会」と言うモノがございまする♪ )



お茶壺道中 [お茶にまつわる話]

お茶の事を調べていると…色々と面白い(?)話にぶつかる事がシバシバですが…

この「お茶壺道中」等もその一つかもしれません(・▽・)?

足利将軍家により開発をされた「宇治茶」を飲むと言う風習は、徳川の世になっても受け継がれて
幕藩体制が固まった、徳川家光の時代には「宇治採茶使」と言う名称で、一つの制度になっていきます。
(※1633年の事)
(ちなみに……初代の宇治採茶使は、朽木友綱:近藤用行:安藤正珍:押尾守勝の4人)

江戸を発して京都に向かい…帰りは(往路はか)「中山道」「甲州街道」を伝って江戸へ…

この「中山道」「甲州街道」を通るのは、湿気の多い東海道を通るのを避けるという意味合いと
(※当時は、「川」に橋が架けられておらず(大井の渡しなどからも)、もろ湿気の影響を受けたらしい)

所謂“口切りの11月”に時間的に揃えると言う意味で、甲府で熟成をさせていたと言う事の様ですね。

良く良く言われている事ですが…?

「お茶壺道中」の各式は高く、御三家よりも上と言う格式から、色々と問題も多く…
(※ 北宋の徽宗の”花石綱”の様な…w)
”岡山藩の池田候”の様な、なにやら水戸黄門じみたお話も伝わっております。

この格式ゆえに、宇治の上林は「苗字帯刀」を許されたと言う事も、その一端でしょうか (@_@;)

「足利将軍家」に倣う「柳営茶道」の構築を担った”お茶壺道中”……

「ずいずいずっころばし」の唄がうたわれる様な「御物」としての「お茶」は、貴重品であると言う事の他に
国家安康を成し遂げた徳川幕府の権威を象徴するものだったと言えるのかも知れません。

(・▽・)/ 「ちなみに…朽木友綱…と言う人は、信長の野望でもお馴染みの朽木元綱…どちらかと言うとリリースするキャラ?の息子さんですw」


硬水と軟水 [お茶にまつわる話]

お茶を点てる際に出てくる、「硬水」と「軟水」の違い……(・▽・)?フムフム

京都他の西国の方は「軟水」
東京他の東国の方は「硬水」

等と言う、実は微妙かつ余りツマビラカニされていない事なども……
(※ まるで「京女に東男」の様 w)

【軟水と硬水の区別】

「硬水」か「軟水」かの区別は”酸化カルシウム換算”と言う指標を用いて区別します。
市販のミネラルウオーターの後ろのラベルを見て行けば分かりますが……
「酸化カルシウム」のところが、100mg以下かどうか?がポイント。
(※ 100mg以下が軟水にあたります)

大体、この指標としては60mg前後が良いと言う感じで言われています……が……
これは、好みの問題もある事はさておき?その内に実験などをしてみたいとは思います♪

ちなみに(?)
市販のミネラルウオーターで「軟水」と言われるモノは
「南アルプス天然水」「ボルビック」(意外だぁ)「六甲の水」と………\(◎o◎)/!

【硬水使用と軟水使用の違い】

実際に「実験」をしていないので……一応の字面と言う事にしておきますが……

「硬度」が高いと(要するに、ペリエとか使った場合ですね)、「苦味」が抑えられる事になる…
「軟度」が高いと(要するに、10mg以下)、「渋味」が増大することになる…

と言う事が、あくまで”理論的な結論”だ…そうです。

お茶の美味しさは、「渋味」「甘み」「苦味」等の組み合わせによるものですが……
この「利き茶?」的な部分は……何気に難しい部分でもあるでしょう(w
(※ そう言う意味では「闘茶」や「茶カブキ」等が得意な方は凄いですが (^◇^))

まあ、個人的には「渋いお茶」は結構好きな範疇でもあります♪

【他の指標:アルカリ性…酸性】

「お水」の指標としては、「硬水:軟水」の他に「アルカリ性:酸性」と言う区別も……

「アルカリ性」「酸性」の区別は、”味”そのもの…?と言うよりは、「お茶の色」と言うモノに影響がある…と

「酸性」:色が薄くなる
「中性」:そのまま
「アルカリ性」:赤黒くなる

「………」(@_@;)

基本的には、「好みの問題」と言う事で流す訳にも行かずに…「中性」が良いのだとは思いますが(w

ちなみに(?) 「中性」は”ph(ペーハー)”と言うモノで区別します
ph7:中性
ph14:アルカリ性
と言う具合ですが……”リトマス紙”を使ってお茶を点てると言う事は……(w

石田三成と”茶道” [お茶にまつわる話]

石田三成と言えば……

【1】:三杯の茶(三献の茶とも言う)→秀吉との出会い
【2】:大谷刑部との濃茶の飲み廻し

が有名であるが……

その他に、良く書かれる事として【利休との政治的確執】と言うものがある……

つまり、石田三成が利休と政治的に張り合ったと言うものであるが

実は、良く良く観て行くと、石田三成と利休とは、かなり微妙で密接な繋がりがある事が分かってくる

石田三成は、秀吉の側近として各地の代官・奉行を勤めているが、「堺」においても”堺奉行”を務めている

無論、この縁で、利休等とも面識は出来ていたと思うが、この堺奉行の線から生まれた縁として

「渡辺宗安」なる人物が浮かび上がってくる……

「鵙屋」「万代屋」とも言われるが、石田三成は、関ヶ原の前に自前の「唐来肩付」を預けている

預けられた宗安は、それを受け取って隠遁に入るが、後に黒田長政に見つけられ

その報告を受けた徳川家康に、最終的に献上をしている。

三成が、この唐来肩付を預ける際に

「これは、宗安殿から買い求めたモノではあるが、この度、自分は天下の大いくさに臨む事になった。」
「その際に、この中国からの名物が失われる危険もあろう。」
「ついては、これを宗安殿に預けたい」

と言う事を述べている……

そして、これを打ち明けられた宗安も

「御武運を」
「石田殿の御意志が通じたならば、その時に、またお返し致しましょう」

と返事を返している。

この、やりとりを見て、石田三成と言う人物に対して、清々しいモノさへ覚えたりする………

さて…?
この宗安なる人物……実は”利休の娘婿”と………\(◎o◎)/!

無論、親子であっても立場が違えば戦いとなるのが、「戦国の世」ではあった訳ですが…

どちらかと言えば「筋論」を持ち、「男性らしい清々しさ」を持つ”石田三成”が果たして利休を追いやるのか?
と言われると、個人的には「…………(;一_一)」と…

まあ、真実は藪の中なのですが……何となく、石田三成像は後世からの脚色と言う気がしてならない様な気がする訳です。


さて…長くなりましたが…

この「唐来肩付」に加えて、三成は「高麗茶碗」を幾つか所有をしていたそうです……

高麗茶碗って………そう、これも利休好みと言う事になりそうで……

まあ、利休好み云々は関係なく、三成の好みにフィットしただけと言う事も言えるとは思いますが。

以上…?

ちょっとした「石田三成像」を書き綴ってみましたが……

【1】:三献の茶
【2】:大谷刑部との濃茶
【3】:唐来肩付:渡辺宗安との縁
【4】:高麗茶碗

と……何気に、「お茶」とは御縁が深い「石田治部少輔殿」でありました。

(・▽・)/♪



小笠原流(小笠原家茶道古流) [お茶にまつわる話]

茶道の流派を調べていると色々な流派が出てくくるが……

その中でも「武家の茶道」と言われるモノも多い…

曰く、「石州流」、曰く、「遠州流」、曰く、「鎮信流」、曰く………

と、その中で”武家の”と言う枕詞が付いた場合に、「小笠原流は?」と言う事になる。

さて、この「小笠原流」……正確には「小笠原流茶道古流」と言うそうだが

系譜としては【村田珠光】→【古市澄胤】→【古市勝元】→【小笠原総領家】と言う流れをとるとされる。

つまり……「千家」とは別の流れに属すると言う事 \(◎o◎)/!

とまれ、「村田珠光」からの流れを受け継いでいると言う事になるが、珠光からの「心の文」なるものを受け取っているのが「古市澄胤」(古市播磨法師」と言う事になるが……この中で、所謂、有名な「冷え枯れる」と言う件が出てくる事になる。

この「珠光」による「冷え枯るる」に関しては、”お茶”における「侘び」に概念との連関が持たれる所だが
その考え方を、どのように推し量るか?は兎も角も、「贅沢」や「奢侈」に流れない「お茶」と言う事は、その思潮の根底に流れていっていると思われる。

(※ 古市一族は、興福寺を背景にしたバサラ大名に近い部分がある)

その古市氏の流れを汲んでの茶道が、小倉の小笠原藩において採用をされて今に至る…と。

九州は、「茶道」が盛んな所でありますが、その由来・来歴が面白い所でもありますね (・▽・)/

徽宗 [お茶にまつわる話]

天下の風流天子の徽宗を”茶人”と言うレベルに区分して良いものかどうか?と言う点があるので……

とりあえずは、「お茶にまつわる話」という事になるが

以前に触れた「茶事遍路」……これは、「茶聖:陸羽」の事がメインに書かれているが…
その他に、”徽宗”の団茶の高級化→抹茶への道のりという事も触れられている。

徽宗の宣和時代をもって、文化の一つの爛熟期とするのが定番ではあるが…
その爛熟ぶりと細密ぶりは、「東京夢華録」や「清明上河図」などを見ていけば分かる事だが
一つのキーワードとして、”細分化””分業化”と言うものも背景に色濃く流れている。
それは、先の「東京夢華録」や「清明」でも現わされているが、「商業」の発達という事と無縁では無いだろう。

政府と結びついた、一つの商業資本による隆盛とそれに伴う付帯産業(サービス業)の細分化
と言う図式により、さまざまな”かゆい所に手が届く”と言う価値体系においては、「野太い」ものよりは「繊細」なものが好まれてくる。

”徽宗期”における「団茶」→「碾茶」と言う流れが生まれ、今の「抹茶」的な「お茶」に遍移していったと言うのも、大いに、と言うところ。

徽宗の政治的な失策と、それに反比例するかの芸術的な偉業と言う点については言うに及ばずではあるが
その”贅沢病”の故に「抹茶」と言うものは生まれてきたと言う事も可能だろう。
馬鹿馬鹿しい話ではあるが、一つの真理として、”大いなる無駄をしなければ、一つの形にもならない”と言う事は多々ある事………

翻ってみれば、日本の「お茶」も、室町の東山殿から始まって、安土桃山時代の壮麗な”消費”と言う部分を土台に生えている事は疑う部分ではない。

そう言う意味での、野太い生命力が、実は”抹茶の細かい繊細さ”の中に含ましめていると言うのは、非常に面白い事であろう?

徽宗の手による「大観茶論」は、まさに「碾茶:抹茶」の誕生をよく記すものであろう。
栄西の手によりもたらされた喫茶の文化は、その前の徽宗期に練られていたものであった……と言う点に
一つの面白さをも感じるが…(四つ頭茶会と言う形で残ってもいるが)

その円状に波及する面白さと、歴史的な背景の同質感と言うものの不思議を感じる……

「お茶」は、楽しいもの
そして、その歴史や思想に触れる事で、また更なる深みを見出すもの……(・▽・)

風流天子としての”徽宗”は、蕭々八景図や桃鳩図の中に見出すだけでは無い…
そもそもの”粉”と言う原点にも見出せる……と言うのが、その面白味でもあろうか…(w


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