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デルフト焼き [茶道具]

遠い異国の地の道具が、日本の茶器になっている不思議さを感じる事もシバシバ……

そんなモノの一つに”デルフト焼き”等がありますが……

鎖国化の日本との間での数少ない交流のあった外国の一つである「オランダ」の陶器でもあります。

”デルフト焼き”は、ドイツの”マイセン”と対比される事がありますが

”デルフト”は「陶器」
”マイセン”は「陶磁器」

と言う違いがあります。

この違いが何をもたらすか…?と言えば…その質感の違いと言う事でしょう。


「硬質」な質感の”マイセン”と「柔らかい」質感の”デルフト”の差に何を見出すのか…と言うのは、それぞれの価値観や美意識(用の美も含めてでしょうが…)の違いと言う事になりますか……

あくまで、個人的な印象としては…その”未完成の陶器”であるデルフトの柔らかさに、日本人の質的な部分が良く合うのかな…と言うザックバランな感想をもっていたりします。


あえて……気障な事を言うならば…?

”成長する器”と言う事でしょうか……(●^o^●)

日本的な「未完成の美」…「高みへの跳躍」と言う点で……ある意味”楽焼き”と似ている部部があるやもしれませんね☆


落曇 [茶道具]

信長の野望的に”9等級”と余り目立たない茶杓ですが……

落曇:「おちぐもり」

茶杓のフォルムと言うモノは、それを使う人(作る人)のセンスが大きく投影されているとも言えるが

それは、他の茶器とは違って、(あくまで相対的に)、自分でも竹を削って茶杓を作り得ると言う事も影響をしているだろうか……

利休切腹の際の「茶杓」は、有名な逸話であるが……

この“落曇”も、面白い逸話を持つ。

豊臣秀吉が保有した、この「落曇」……

その、形に対して、何か思うところがあったのであろうか…?

秀吉は、その茶杓に力を入れて(?)、茶杓を変形させようとする……(@_@;)
(まあ、茶杓を観て、こう言う方がよいなぁ…と言うのは分からなくもないが…)

それを観ていた…施薬院徳雲軒と言う秀吉の侍医が、押しとどめたと。

その事を評価した秀吉が施薬院徳雲軒に褒美として与えたとされる。

と言うのが、この「落曇」の由来ではあるが……

モノには、面白い背景があるモノだと……

地震… [茶道具]

昨日の地震で、部屋の中はマサにあちこちが吹き飛ぶ様な状態……

特に、たいしたモノは無いが…とりあえず”本”だけは沢山ある状態での地震であったので……

本が乱れ飛ぶ有様……正直…本が降ってくる?様な感じで……

間一髪セーフ…の様な感じでもありました……

しかし……残念な事に……その時…テーブルの飲んでいた紅茶が……本にかかりまくる…と言う現象が…

そんな後始末をしながら……

自分などは、モノを持っていないけれども…先生や、それこそ貴重な道具を沢山持っておられる方々は

どうされたのだろうか…?

等と…思ってしまったりもした…(;一_一)

正直、今回の地震は……今後、お茶をやって行く上で…色々と考えながら、進めて行くが必要なのだな?

と……


蛍篭 [茶道具]

「蛍篭」とは……なかなかに風流な名前であるが…俳句の季語では無く……

”茶室”の名前であったりもする……(・▽・)/

西本願寺の18代文如(1744~1796)が作らせたと言われる「組み立て式茶室」……

正確には…”組立式屏風茶室”とされ…屏風から起こして作られていく形になっている。

”黄金の茶室”も同様だが…今で言う「2×4」の感覚が現れている所に、”古くても新しい”と言う世界を垣間見る事が出来る……

出来上がった茶室(屏風)は、そこかしこに窓があり…まさに”藁で作った蛍篭”の様……

それは、秀吉の黄金の茶室の様に、それ自体が光り輝くものでは無くて、その中におる人達の作為によって光を発すると言う…「わび」「さび」の世界の一つの体現でもあるだろう。

利休の作風・流れとは、また一味違った「藪内流」であった本願寺の面目躍如と言う所だろうか♪


蒟醤 [茶道具]

「蒟醤」……(・▽・)……「コンニャクの”こん”にショウユの”しょう”」って書くものな~~んだ?

「キンマ」と読むのが正解です♪

【蒟醤】

元々は、ビルマのマンダレー地方に生えている「檳榔子」の実を石灰と一緒に噛むと言う事が行われており
その「檳榔子」の事を「キンマ」と読んでおりました。(※ 現地では今も噛んでます)
今で言う、「キスミント」や「ブラックブラック」(或いは「森下仁丹」w)と言った所ですが…
その「キンマ」を入れておく容器の事を「キンマ」と読んだそうな♪

(・▽・):「檳榔子」は「キンマ」 「噛む事」を「マーク」と呼び、「檳榔子」を噛む事を「キンマーク」と…
      そして、「キンマーク」が短縮されて「キンマ」となった、と。

さて?

その「キンマ」ですが…発祥の地であるビルマ(緬)から…

「ビルマ」→「タイ」→「アンナン」(安南:ベトナム)→「中国」へと渡り、漆器として発展をしていく事になります。

その後…室町時代になり、倭寇により南方の物産や文物が多く流入する事になり「キンマ」も日本に入って来る事になります。

(※日本での「キンマ」は、江戸時代の高松藩により天保4年 玉楮象谷(たまかじぞうこく)により、初めて作られる事になります)


つまり…当時としては「舶来」…もとい「南蛮渡来」と言う位置づけになる高級品であったようで…

江戸時代初期には「茶屋四郎次郎」等により朱印船と共に持ち帰られたりしていましたが…

何と言っても?「利休百会記」に出てくる「きんま手」と、利休が好んだとされる「利休蒟醤茶箱」の存在を忘れる訳にはいきません。

「唐物」をどちらかと言えば忌避した”利休”が「キンマ」を使うと言う事は一見矛盾もしそうですが…
まあ、利休とて、「唐物」を完全に排除していた訳でも無いでしょうし、
「キンマ」自体に「呂宋壺」と同様に「価値の転換」を見出していたとすれば、それはそれでと (・▽・)/

(そして、この「利休蒟醤茶箱」に仕覆として”加比丹裂(甲比丹裂)”を用いたのが、表千家11代の碌々斎と言う事になりまする)

この「キンマ」、江戸時代においては「馬」の模様と合わせて使われる事が多く、江戸時代の人の洒落?
が利いていたと言うか何と言うか、「金馬」と言う風に呼ばれたりする事も……

何となく、マイナーな感じの「お道具」ではありますが……(;一_一)

東京国立博物館には、かの”松永耳庵(松永安佐ェ門)”が寄贈した「怪獣蒟醤小壺」と言うモノがありまする。

近代数寄者の一人のお目に適った一品……の「キンマ」……

元々は「キスミント」入れの「壺」だった…と言うのも、なかなかに(w



菓子切りとお菓子の微妙な関係? [茶道具]

良くテレビやその他の映像などを見ていると、お茶を頂く際に(「抹茶」ね!この場合はw)
「菓子切り」を使っている映像が”圧倒的”なモノとして目に入ってくる………

が……!?

どうも、”表千家”の流儀としては「菓子きり」を使わない……と言うのが、どうも”定番”の様である……

と言う事は、実際にこうして「お茶」を始めて教わった事の一つである。

その理由(?)と言うべきか…深意は不明なのだが……

どうも…「男らしく食べる」と言う事が根底に流れている…と言う事がある”らしい”

まあ、この辺は”色々な意味で物議を醸す”ところでもあると思うのだが……(;一_一)

「男らしさ」とか「女らしさ」等と言う問題では無く……

”果たして…水羊羹とか……も…手で食べるのですか?????”的な、実際上の問題である。

個人的に「和菓子」や「懐石」と言ったモノへの興味が「お茶」へ惹きたてられている一つの原動力なのだが…

「カステラ」や「金平糖」等は、手づかみ(まぁ、そんな下品な事はしなくてもなのですが w)で食べれるが…

「水羊羹」「錦玉羹」(金魚とか泳いであるモノですな♪)「初かつお」等は………どうすれば…?

と言う悩みも……

まあ、一時のネバネバと言うかザラザラなので、懐紙で拭くと言う事で解決の付く問題ではあるのですが…

何とも? 微妙な問題ではある訳です(w

裏返して言えば…( ^^) _旦~~

亭主の心意気として”手が汚れるお菓子”は出さない…と言う事なんだと思いますが。

とりあえず…わが師は「お菓子は手で」が基本線なので、弟子としては踏襲をすると言うまででありまする。

白極緞子(はくぎょくどんす) [茶道具]

東山殿(慈照院)由来の裂となり、かなり古参の裂(緞子)。

足利義政が、白拍子の「白極大夫」の鼓を称して与えたと言われるモノ

これが、義政の胴囲を与えたとも言われている点で、相当な寵愛を受けていた…?と見るべきか…
それとも、義政が実はかなり「婆沙羅」っぽい資質があったのか…?
(※ 意外に”気弱”に見える足利義政ですが……何気に専制君主的な部分もあります (-_-メ))

その辺の経緯が結構微妙な「裂」ですが……

「鳥襷紋(とりだすきもん)」(鳳凰の紋)
「宝尽くし」
を組み合わせた緞子となっています

この「白極緞子」においては…「宝尽くし」がかなり微妙(小さく散っている)ですが……網目状の間に散見されます。

類似の「裂」としては:「下妻緞子」「少進緞子」


まあ……足利義政…由来と言う事もあってか?
「大名物:国司茄子」「中興名物:富士山肩付茶入」の仕覆となっておりまする。 \(◎o◎)/!

瀟湘八景図 [茶道具]

「瀟湘八景図」………言わずと知れた唐物であるが…(信長の野望的には1等級のお約束ですが…)

足利義満・足利義政が蒐集した「東山御物(ひがしやまごぶつ)」でもあります。

ただ?ここで注意をしないといけないのは……「唐物」の「瀟湘八景図」と「和物」の「瀟湘八景図」とは別と言う事だと言う点。

そして、「唐物」の「瀟湘八景図」は、”玉澗”と言う人物の「瀟湘八景図」と”牧谿”と言う人物の「瀟湘八景図」の2つがあると言う事にも注意。

また……【瀟湘八景図】それ自体の”おさらい”として…

中国の洞庭湖に流れ込む「瀟川」「湘川」の周辺部を題材にして描かれた「絵」の事を指すとされ

①:瀟湘夜雨:瀟湘の上に、もの寂しく降る夜の雨をモチーフにして描かれたモノ
②:平沙落雁:秋の雁が鍵状になって、干潟に舞い降りてくる情景をモチーフにして描かれたモノ
③:烟寺晩鐘:夕霧に煙る中、遠くの寺より届く鐘の音を聞きながら迎える夜をモチーフにして描かれたモノ
④:山市晴嵐:山里が山霞に煙って見える情景を描かれたモノ
⑤:江天暮雪:日暮れの河の上に雪が舞い降りる風景をモチーフにして描かれたモノ
⑥:漁村夕照:うら寂しい漁村が夕焼けに染まる風景をモチーフにして描かれたモノ
⑦:洞庭秋月:洞庭湖に光る秋の月をモチーフにして描かれたモノ
⑧:遠浦帰帆:夕暮れに帆掛け舟が遠方から戻ってくる情景をモチーフにして描かれたモノ

の八つのテーマを題材にするとされる。

中国では、「宋迪」と言う人物が最初に描いたとされ…「王洪」、次に「玉澗」、「牧谿」と言う順に続きます

そして、足利義満により「牧谿の瀟湘八景図」を8つの分断して分割して表装をしなおします。
また、「玉澗の瀟湘八景図」は、足利義政により同じく8つに分断をされ、同じように分割をして表装をしなおします。(※この足利義政の分割の際の表装の裂が東山裂であったりします)

このうち、牧谿の瀟湘八景図は、「遠浦帰帆」(京都国立博物館)、「漁村夕照」(根津美術館)、「烟寺晩鐘」(畠山美術館)、「平沙落雁」(出光美術館)の4点が現存。
玉澗の瀟湘八景図は、「遠浦帰帆」(徳川美術館)、「洞庭秋月」、「山市晴嵐」(出光美術館)の3点が現存。

中国では、余り評価を受けなかった「水墨画」ではありましたが、日本では「唐物の最高峰」として高い評価を受ける(君台観左右帳記)に至った”瀟湘八景図”ではありますが……
色々と混乱をしそうな感じ(?)ではあるので、ちょっとした整理として…(・▽・)



タグ:牧谿 玉澗

甲比丹間道(カピタンかんとう) [茶道具]

お仕覆にある「間道」(かんとう)、これも色々と書き表す事が出来るようですが(漢東・漢島など)

要するに、「縞模様」の裂を使っているモノをさしまする (・▽・)/

さて、その「間道」…どちらかと言えば、「舶来」の影響が強かった様で…?

中国・ペルシア系:絹をベースに
インド系:交織物(絹と木綿を混合)
南インド系:木綿系

と言う具合に大雑把に分類されるようですが…そもそも、日本と外国との交流が盛んになった事により
もてはやされてきたと言う感じの流れでしょう。

確かに…中国・ペルシア系と言うのは、かっての「遣明船」やシルクロード交易と言う残滓から推測が出来る所ですが?
「インド・南インド」と言うのは、「大航海時代」以後の「ポルトガル」「イギリス」と言う勢力の海外進出の影響によるものと言う事が、その裏面として見えてきます。

(※フランシスコ=ザビエルもポルトガル領のゴア(インド)に立ち寄って来たり…鉄砲伝来の”ムラシャクシャ””キリシタダモタ”と言う人達もポルトガルですしね \(◎o◎)/!)

と言う事で、”非常に国際性豊かな間道”な訳ですが……
その中でも「甲比丹間道」とは、単純に江戸時代の「オランダ商館長」のカピタンと言う事では無く、ポルトガル人以降の外人を指して…と言う意味合いでのインターナショナルな裂と言う事になるでしょうか(w

【甲比丹間道】

インド系の絹と木綿の交織物
他の類似の裂として「弁柄縞」「今照気」等がある。

立て糸(経)は「染糸」
横糸(緯)は「白糸」
で作られるとか………

(・▽・)〆 まあ、余談ついでに言うなれば…「縞模様」は、”魔除け?”と言う意味合いもあったそうな…

とは言え……幾ら、”唐モノ”に間道を使う事が多いとは言え……「カピタン間道」は使わないんだろうなぁと(w

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